第一話「サステナブル号は何処へ行く」

1999年、私はアメリカ・ミシガン州西部の小さな街、グランドラピッツで行政、企業、教育が一体となってつくる「サステナビリティ」に出会った。その頃の日本はエコとか環境保全という言葉は聞こえてくるが、「持続可能な開発」という考え方や、サステナビリティという概念は社会にはほとんど届いていない時代だった。
そんな時に、確信めいた予感に導かれるように、私はこの街を訪れた。
グランドラピッツは中心部に20万人、郊外まで含めると75万人ほどで、医療産業と上質な家具生産を主要な産業としている。リバーシティと言われるように美しいグランド川が街の中心部を流れ、文化と豊かな自然の中で暮らしてきた人たちの歴史には誇りが感じられた。
ここがESD(Education for Sustainable Development:持続可能な開発のための教育)を推進する拠点地域として国連大学から認定され、サステナブルな街づくりを実践していたのを知ったのは少し前のことだ。ESD は1992年、リオデジャネイロの国連環境開発会議のアジェンダ21の中で持続可能な開発のための教育の重要性が指摘されていた。
グランドラピッツでは、「環境への配慮」「住民への配慮」「経済的な繁栄」という3つの柱を達成するために、企業と教育と行政が連動しながら街全体がひとつになってサステナブルな社会を目指していた。
この街にあるアクイナス大学はアメリカで早くからサステナブルビジネスコースを設けた大学として知られている。地域とともに歩む大学として140年以上前に設立され、煉瓦造りの古い校舎が樹々の間に息づき、歴史を伝えるかのように独特の重みを湛えている。

私はこの大学を訪問した際に、当時のエドワード・バロッグ学長と教育とサステナビリチィについて話し合った。そのとき学長は「企業の社会的責任とは企業が単にお金を出すだけではありません。サステナブルビジネスを実現できる人材を大学が養成することの必要性を通じて、企業と大学と行政が一体となるべきです。」と話された。
その言葉は、私の胸の底にすんなりと行き届いた。サステナブルビジネスもまた教育が関わることが重要なのだということをそのときに確信した。
そして、サステナブル社会の概念も素晴らしいと感じ、いつの間にか、産(企業)・官(行政)・学(教育)の3者が感謝し合うことで、サステナブル社会の実現に行き着くのではないかという考えが頭の中を巡っていた。

グランドラピッツで思い描いた「サステナブルThanksの法則」
それ以後、私は幾度となくこの街を訪れた。訪れるたびに、この街が掲げる理念や、整然とした都市の姿、アートとデザインが織りなす洗練された空気に触れた。街には高潔な理念が息づき、人々は明るく、協働の精神に満ちている。まさにサステナブル社会の模範とも言える姿がそこにはあった。サステナブル社会を実体験できたことは私のこれからの活動の宝物になった。
私はいままでビジネスとは提供する人も享受する人も幸せであるべきという姿勢で会社を創立し、仕事に取り組んできた。その延長線上に、社会にとって少しでも役に立つ存在でありたいという思いを常に抱いてきた。サステナビリティの概念に触れたことで、朝日エルという会社を起業した原点を見つめ直す機会にもなった。
ここで出会ったサステナビリティを自分の中で確かめるためにも、一日も早く日本で向き合いたい——そんな思いに突き動かされて、私は迷うことなく「サステナブル号」に飛び乗った。この電車は今はまだ空席があるが、近い将来満席になるであろう確信からである。
一方、どこかしっくりと馴染まない感覚が湧いていた。その理由を言葉にするのは難しい。ただ、慣れ親しんだ日本の文化とはどこか違った感覚が疑問として残ったのだった。そこで「日本サステナビリティ号はどこへいくのか」の文章を載せた。
「日本サステナビリティ号」はどこへ行くのか 岡山慶子
2015年11月12日 by C14
1999年、初めてアメリカのミシガン州で自治体と教育機関と企業が連携したサステナブルな地域に出会った。それを「サステナビリティ号」という乗り物に例えればかっこよくて乗ってみたくなった。乗ってみると新鮮でわくわくし、何かしら本当のことを伝えているような気がした。が、少し居心地が悪かった。その頃、日本では「サステナビリティ号」には誰も乗っていなかった。今や、政治、まちづくり、ものづくり、などどんなものにもサステナブルという言葉は氾濫し「サステナビリティ号」は満席に近くなった、しかしここにも居心地の悪さも感じている。日本サステナビリティ・マネジメント・フォーラムでは両者について研究し、日本がめざすべきサステナビリティ号を走らせたい。
サスティナビリティフォーラム 「日本サステナビリティ号」はどこへ行くのか 岡山慶子
